反脱原発宣言

私は脱原発を支持しない

2011年3月11日に起きた東日本大震災から早いもので、1年8ヶ月が経とうとしている。
この1年8ヶ月の間、我々福島県民は3つの苦難との戦いを余儀なくされてきた。1つは地震による苦難、2つめには震災により発生した福島第一原発事故による放射性物質との苦難、そして3つめはそれにともなう風評被害への苦難である。
現在、世間では脱原発に向けた運動・議論が盛んに行われている。しかし、その運動・議論には首を傾げざるを得ないというのが正直な所である。

脱原発を標榜する者の中には、東京・大阪など電力大消費地域の住民が少なくないが、そういう者たちの口からは原発事故を引き起こした東京電力や政府の不手際を非難する声や、原子力エネルギーに代わる代替エネルギーを求める声は聞かれても、発電所を電力大消費地域に建設し、地方にのみ押し付けるなという声は一向に聞こえてこない。
それどころか、東京都の猪瀬直樹副知事のごときは、東京都の電力供給のための火力発電所を福島に作れなどと言い、また一部の脱原発派の中には、原発立地地域を「麻薬漬け」「守銭奴」などと口汚く罵る者も存在する始末である。

そもそも日本の原子力政策は、国策であり、「迷惑施設は地方に、果実は中央に」という中央のエゴイズムと地方蔑視に根ざしたものである。かつて地方で原発建設反対運動が起こると、「お前ら地方民も電力による恩恵を受けてんだから、原発反対なんて地方のエゴイズムだ!」と非難してきたのは、他ならぬ中央や脱原発派が口を極めて論難しているいわゆる「原子力ムラ」であり、現在、脱原発派がその「原子力ムラ」のロジックを駆使して原発立地地域を非難する現象は、皮肉にも彼ら脱原発派の心証が「原子力ムラ」のそれと酷似している事実を証明している。

脱原発派が展開している被災地の「放射能瓦礫」の広域処理反対運動を見ても、彼らが真に福島や震災被災地を真に思っているとは到底思えず、彼らの「脱原発」なるものは単に我が身可愛さや反体制運動のために被災地を出汁にしているとしか思えない。被災地復興の美名の下、復興資金を流用し私物化する霞ヶ関の官僚群と大差無い。

私も原発は最終的に無くなって欲しいと願う人間である。しかし、脱原発派の1年8ヶ月におよぶ言動・行動を傍らから観察してきて、彼らは被災地復興を妨げるのみならず、脱原発への道をも塞ぐものであると判断するに至った。

脱原発派に与せぬ者は悪だと言うのであれば、私は喜んで悪の汚名を引き受ける所存である。